皆が一致団結して南海トラフを乗り越える【小火尊塾】

明治維新は、黒船来航を知った下級武士たちがこの国の危機を察知して、行動を起こし日本の国を異国より守った。今、南海トラフ地震・津波という日本の危機に際し、手をこまねいているのではなく、皆が一致団結してこの危機を乗り越えようと「小火尊塾」を開塾する。
明治維新の志士たちは 江戸時代 四書五経などの東洋哲学を学び、己を作り、大義に生きた。「小火尊塾」でも東洋哲学を基礎に、「徳」のある人間を輩出し、各地でリーダーとして活躍し、日本をより良くすることを目的とする。
誠は人と人の絆を強くし、とんでもない富をもたらし、さらに徳を積むと聖人と言われるような人になるのです。
これらでの学びは連続するものでなければならず、人は一生涯学び続けて、人格の涵養をはかるとともに、日本や世界をより良くすることが最大の目的である。同志よ、集い 学び 己の人格を高め続けようではありませんか!

親子で学びたい「二宮金次郎伝」 三戸岡道夫 致知出版より

 貧しくても、自分のことだけを考えるのではなく、世のためになることをやる。
金次郎は 畑仕事をしていると、家に一本しかない鍬がこわれてしまったので、隣の家に借りにいった。しかし、隣の家も農作業の最中だった。
「いま使っているから駄目だ」と貸してくれなかった。そこで金次郎は「おじさん、私が手伝いましょう」と言って畑仕事を手伝った。
その手伝いのおかげで畑仕事は早めに終わったので「ありがとう金次郎さん。これからは鍬のほかにも要るものがあったら、何でも貸しますよ。遠慮なく言いなさい」と感謝されながら、予定していたよりも早く鍬を借りることが出来た。
自分のためを思うよりも、他人のためを思え、それが結局は自分のためになるということを少年ながらに感じたのであり、これも後世の二宮金次郎の「推譲」の哲学の原点になるのであった。
立派な百姓になるには、ただがむしゃらに働くだけでは駄目である。立派な百姓には知恵が必要である。それには学問(四書五経などの東洋哲学 歴史書)をすることだ。そこで夜、皆が寝静まるのを待って読書にはげんだ。
十七歳の金次郎はもう一つ貴重な体験をした。田植えの季節である。田植えが終わり、金次郎が帰り道を歩いていると、あちこちに植え残りの苗が捨てられている。もったいないと思った金次郎はそれを拾い集めて帰った。そして自分の家の田んぼの片隅の水たまりのような所に植えてみた。すると秋になると、その苗は一俵の米の収穫になった。金次郎は(捨てた苗が一俵の米になる。すなわち(小さなことでも、積み重ねれば大きいものになる)ということであった。
天地の間には(小を積んで 大を為す)という道理のあるのを実感したのである。「積小為大」の理法である。
金次郎は転々と奉公先を変えていくわけであるが、それは農家から名主へ、名主から小田原藩士(武士)へと、たえず上位のポストへの変更であり、ここに金次郎の広い世界へ出たいという、上位志向への意欲が見てとれる。
奉公先の服部家は財政的に苦しく仕える用人や奉公人たちの懐も苦しかった。そのため彼等の間で、個人的に金を貸したり、借りたりする風習も広がっていた。
 これを見て、金次郎は個人的に金をばらばらに貸したり借りたりするのではなく、これを組織的なものにする金融システムを作った。
 五常というのは、人の行うべき道として儒教が定めた五つの根本原理で、仁 義 礼 智 信の五つの徳である。この五つの徳を守る人間であれば、信用が置け、安心して金を貸すことが出来る。
 人間が働くのは、ただ自分のためにだけ働くのではなくて、他の生命のために働かねばならぬということであり、これが「他の恩に報る」報徳なのである。
 天保四年に異変が起きた。大飢饉である。天候不順で夏の初めから幾日も雨が降り続いた。
 金次郎が宇都宮で昼食のおかずに出された茄子を食べていると、初夏なのに秋茄子の味がした。初夏だというのに秋茄子の味がした。
驚いた金次郎は外に飛び出して、稲や道端の草を調べてみた。
すると根は普通であったが、どの稲も草も葉の先が衰えていた。
土の中はまだ夏であったが、地上はすでに秋になっていることがわかった。これはただごとではない。これでは農作物は実らないであろう。すぐに準備にかからないと、百姓たちは飢饉に苦しむことになると直感した。
 金次郎は桜町領へ帰ると、百姓たちに「今年は作物が実らないから、凶作への準備が必要である。ただちに地下に出来るもの、すなわち芋大根 かぶらなどの飢饉に強い野菜の種をまくようにせよ。それと冷害に強い稗をまくように、そして稗が実ったら、必ず貯えておくのだ」と指示した。
 すると百姓たちはこれを笑って、「どうして今年の米の豊凶を初夏から知ることが出来ようか、まったく無益なことをするものだ」とささやき合った。
 さらに金次郎は空き地や荒地 寺社に境内など耕せる限りの土地に大豆などを作らせ、凶作に備えた。
 すると盛夏に長雨が続き気温も低く、関東から東北にかけ凶作となり餓死者が多数でた。しかし桜町領は一人の餓死者もださずに済んだ。
 そこではじめて人々は凶作を見通した金次郎の洞察力に驚き、自分たちの浅知恵を恥じ入り、金次郎の人徳はいやが上にもあがった。
 二年おいた天保七年に、また飢饉がやってきた。これは前回よりひどくなるぞ、そう直感した金次郎は、すばやくその対策に乗り出した。
 秋に入るとはっきり姿を現し、餓死者は数十万人に達し、餓死した人がみちばたに横たわり、家の中にも餓死者が累々と横たわり、それは地獄のようであっ
 た。しかし桜町領からは一人の餓死者も出ず、難をまぬかれることが出来た。金次郎 五十歳の時である。
小火尊塾にて二宮金次郎のような徳ある人物になり、地域をそして日本をより美しくしましょう!